父はあらゆる食物を「おしいただく」ようにして「惜しみ惜しみ」食べる方だったから、コーヒーも例外でなく、西洋式の食事の後のコーヒーは別として、「必要なとき」だけにコーヒーを「有難く」のんだ。その「必要なとき」は作歌や原稿を書く「勉強をするとき」であった。父の本職は精神科の医者だから当然コーヒーのカフェインの薬理作用を考えてのことであったであろう。
私とコーヒーとのつきあいは、このような父の言葉から始まった。』
実際にコーヒーを飲んだ「初めての経験は」強烈だったそうですが、その後、海外の各地で飲んだコーヒーを紹介していて興味を惹かれます。
『初めてアメリカで飲んだ,薄くて量の多い「アメリカン」で何杯でもお代わりする習慣が印象強かった。
ウイーンのホテル・ザッハのテラスで飲んだ、ザッハトルテを食べながらのんだウインナコーヒーの味は忘れ難い。
ブラジルでは、扇風機の回る薄暗い飛行機の中でのんだ、ドロリとしたドミタスの味にブラジルを実感。
サンパウロの精神病院の病棟の一角で、歩きながらひょいっと立ち寄って一杯という風景に、実感を濃くした。
アラブ首長国連邦、アブダビ郊外の博物館の館長室で出されたアラビアコーヒーが金属カップで出され、口中ザラザラに「アラブ」に通じる思いを。
中国では、ほとんど中国料理だが、たまの朝食にでる西洋式でのパンとコーヒーの構成。2回目の中国でのコーヒーは記憶にかかわる感じが。それは、戦中、戦後にのんだ「豆ヒー」の味だった。上海から揚子江経由で武漢からの列車でずっと興奮状態だった。
軍医として三六年前に赴いた株州への行軍で、食料も儘ならぬ情勢の中、灯油のほのかな光のなかで、なんとコーヒーが出された。連隊の高級軍医が、「コーヒーのわかる人が来るまでとっておいたのだ」というのだ。そのときのコーヒーの味は終生忘れられない。再び訪れた食堂車のメニューにコーヒーはなかった。』
もたさんにとって、父茂吉の思い出は、「勉強するからコーヒーいれてくれや」に尽きるそうです。
さて、コーヒーの愛飲家諸氏の初めてのコーヒーはどのようなものだったでしょうか。甘くそこはかとないものだったでしょうか。忘れ得ぬひととの一杯だったでしょうか。たった一杯のコーヒーが、あの日あの時の思い出につなげられているなら貴重なことですね。
(了)