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談話室

山頭火とコーヒー (5)

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山頭火とコーヒー (5)
 
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 酒におぼれ浮世離れしたように見える山頭火ですが、時世を感じてもいました。
 旅日記 1938年(昭和十三年) 56歳には、次のような内容が書かれています。
『七月三日  朝酒一本飲んで戻った。戦時的色彩が日にまし濃厚になる、私もひし々と時局を感じる。しみじみ戦争を感じる。 …  リュシコフ将軍の新聞記事が胸をうった、ああ人間。… 』
 ここに出てくるリュシコフ将軍とは当時のソ連秘密警察の幹部で日本に亡命した人物と思われます。

 同じ日記に、コーヒーを貰ったこと、コーヒーをたびたび味わっていることが記されています。
 『 七月十八日 晴
朝早く身もかろく心もすが々しく。句稿など整理しつゝ待つてゐる。――
正午すぎ中原君(詩人中原中也の弟)来庵、焼酎を奢つて貰つて飲みかはす、どちらも酔うてしまつて、湯田へ出かける、それはやつぱり酔興だつた、酔中はなれ々になつて、そここゝさまようたが、やうやく夜が明けて歩いて戻つた。……
自制、自制、今の私に缺げてゐるものは、無くてならないものは自制である、自制せよ、自制せよ。』

 『 七月十九日 晴。
暑かつた、――まつたく真夏の天地になつた。
茫々たり、漠々たり、混沌として何物もなし、しかも堪へがたく憂愁たゞよふ。……
夜、中原君来訪、同君のよさが事毎にあらはれて、ます々好きになる、私を心配してくれる心持がたまらなくうれしい、酔態の見苦しかつたことを聞かされたが、大した醜態は演じなかつたらしい、日頃の狂態までには到らなかつたことを知つて、ほつとした。
蚊帳の中でランプも点けないで、十一時まで話し合つた。
かねて読みたいと思つてゐた雪国と浅草紅団とを持つて来て下さつた、ありがたし々。
労れて安心して安眠した、めでたし々。
今日はまたアメリカの大月さんからコーヒーを頂戴した、ありがたう々。』

 『 七月廿一日 晴。
沈静、句稿整理。暮羊居から新聞を借りて読む、婦人公論も。まつたく土用だ、よい暑さだ!
夕風に吹かれて散歩、飲みたくなつて、銭はないけれど、Wさんを訪ねて、飲まして貰ふ、酔つぱらふ、でも戻ることは戻つた、こけつまろびつで。』

 『七月廿四日 晴、風が涼しかつた。
私は二日酔をしない、いうぜんとして落ちついてゐる。涼しい昼寝、あゝ勿体ない、赦して下さい、すみません。
昼も夜も暮羊君来庵、ブラジルコーヒーを味ふ。今夜は意外な訪問者があつた、Mのおかみさんとその娘、何もないからコーヒーを少しあげた!』

 『 七月廿五日 晴。
早起、焼香、肌寒。―― 節食、それは絶食の前提となるだらう。老鶯啼く、ゆつくりしんみりコーヒーを味ふ。 …… 雪国を読む、寂しい小説だ、康成百パアの小説だ、人生は一切徒労か、情熱いたづらに燃えて、燃えつくすのか!  …  Yさんの戦死は私を悲しがらせて、――どうにもならない。』

 『 七月廿六日 晴――曇。
好晴がつゞいたが曇となつた、どうやら雨が近いらしい、物みな待ちかまへてゐる。待つともなく待つもの、来なかつた。絶食、食べるものがないから食べないのだが、身心清掃の工作としてよろしい。』

(続く)
 
  • 2015.11.22 Sunday
  • 13:49

談話室

山頭火とコーヒー (4)

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山頭火とコーヒー (4)

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其中日記1935(昭和10)53歳 一月十三日の記録ではコーヒーをごちそうになった記録があります。
『冷たくて「寒」らしい、冬は寒いのがほんたうだ。酒と豆腐とがあつて幸福である。
樹明君来庵。いつしよに出かけてSさんを訪ねる、御馳走になる、それから三人連れで歩く、コーヒー、ビフテキ、コリントゲーム、等、等、等。ほどよく別れて帰庵。
「家があれば菰あむ音のあたゝかな日ざし」  』

其中日記 1937(昭和12)55歳、 に「コーヒーに惹かれるものあり」とあり、同時に俳句論を記しています。
『 六月七日 雨、雨、雨。
昨夜は宵からあんなによく睡れたのに、今夜はいつまでも睡れない、うつら々してゐるうちに、いつとなくみじか夜は明けてしまつた。……
俳句は――自由律俳句はやさしくてそしてむつかしい。門を入るは易く、堂に上るは難く、そして室に入るはいよ々ます々難し。句はむつかしい、特に旅の句はむつかしい、と句稿を整理しながら、今更のやうに考へたことである。時代は移る、人間は動きつゞけてゐる、句に時代の匂ひ、色、響があらばマヽ、それはその時代の句ではない。
貫き流るゝもの、――それは何か、問題はこゝによこたはる。
その花が何といふ名であるかは作者には問題ではない、作者は花そのものを感じるのである、しかし、その感動を俳句として表現するときには、それが何の花であるかをいはなければならない …
都会人にビルデイングがあるやうに田園人には藁塚がある、しかし、煎茶よりもコーヒーに心をひかれるのが、近代的人情であらう。
俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい(短歌も同様に)、一句一句に作者の顔が刻みこまれてある、その顔が解らなければその句はほんたう解マヽらないのである。把握即表現である、把握が正しく確かであれば表現はおのづからにして成る、さういふ句がホントウの句である。』

(続く)

 
  • 2015.11.15 Sunday
  • 11:10

談話室

山頭火とコーヒー (3)

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山頭火とコーヒー (3)
 
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 コーヒーの記述が出てくるのは1930年10月、山頭火48歳、岩川を経て末吉に至ったとき、行乞記(ぎょうこつき)に記しています。後に行乞の旅から熊本に帰り、市内に二階一部屋を借りて「三八九居」と名付けて自炊をしています。

 『十月十二日 晴、岩川及末吉町行乞、都城、江夏屋
九時の汽車に乗る、途中下車して、岩川で二時間、末吉で一時間行乞、今日はまた食ひ込みである。
 ……
「旅の夫婦が仲よく今日の話」
行乞即事
「秋の空高く巡査に叱られた」「その一銭はその児に与へる」
 今夜は飲み過ぎ歩き過ぎた、誰だか洋服を着た若い人が宿まで送つてくれた、彼に幸福あれ。
藷焼酎の臭気はなか々とれないが、その臭気をとると、同時に辛味もなくなるさうな、臭ければこそ酔ふのだらうよ。
「世を捨てゝ山に入るとも味噌醤油酒の通ひ路なくてかなはじ」、といふ狂歌(?)を読んだ、「山に入つても、雲のかなたにも浮世がある」といふ意味の短歌を読んだこともある、こゝも山里塵多しと語マヽ句も覚えてゐる、「田の草をとればそのまゝ肥料コヤシかな」――煩悩即菩提、生死去来真実人、さてもおもろい人生人生。
夕方また気分が憂欝になり、感傷的にさへなつた、そこで飛び出して飲み歩いたのだが、コーヒー一杯、ビール一本、鮨一皿、蕎麦一椀、朝日一袋、一切合財で一円四十銭、これで懐はまた秋風落寞、さつぱりしすぎたかな(追記)』

 寂しさを酒で紛らわせ、酒気の抜けぬもうろうとした状態から句が湧き出るように思えます。独り身の気楽さの蔭にある寂しさが以下の句から見えてきます。
「年とれば故郷こひしいつく々ぼうし」
「何とたくさん墓がある墓がある」
「秋寒く酔へない酒を飲んでゐる」
「一きれの雲もない空のさびしさまさる」
「家を持たない秋がふかうなつた」

 其中記 1934(昭和9)52歳 五月廿六日には、コーヒーを飲んだものの、少ない持ち金のなくなるのを惜しんでいます。
『日本晴、頬白が囀り合うてゐる、私もうれしい、多分彼氏の来る日だ。
何とあたゝかい手紙が――澄太君をして迎田さんから――
ふと思ひ立つて山口へ行く、途上、冬村君に逢ふ、ニコ々してゐる、その筈だ、今夜が婚礼だといふ …
買物いろ々――夕顔の苗、蕨、生干の小鰯、小さい食卓、等々――それだけで壱円あまり。
昼食は酒一杯とうどん一杯、むろん千人風呂には入つた、これが目的の大半だから、――温泉はほんたうによい。
九時で行つて三時には戻つた、戻つてみたら、やつぱり敬治君が来てゐた、いつしよに農学校へ、樹明君は婚礼の接待役を頼まれてゐて駄目、二人で駅のI旅館で夕飯、よく食べてよく飲んだ、うまかつた、近来の御馳走だつた、それからMでコーヒー一杯、そこで別れる、敬君は実家へ、私は庵へ戻つてぐつすりと寝た(コーヒー代五十銭はやつぱり惜しかつた、それは買はなければならない米二升代だつたではないか!)』

 コーヒー一杯が米二升代に相当するとあり、コーヒーが高価な飲み物であったことが分かります。
1升は1.5キロ、2升で3キロ。現在の米価は様々ですが平均的な米価では、1キロでおよそ400円とすると、2升で1200円相当ですから、当時のコーヒーがかなり高価だったことが分かります。それでも、飲みたかったコーヒーの味はどんなものだったでしょうか。

(続く)


 
  • 2015.11.08 Sunday
  • 11:08

談話室

山頭火とコーヒー (2)

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山頭火とコーヒー (2)
 
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 山頭火の俳句を考えるためには、その生涯がどのようなものだったかを知らずに語れないといえます。あまりにも波瀾万丈の生涯はそれだけで何冊も書物が書けそうですが、簡単にその生涯について書いてみましょう。
 1892年(10歳)父の不貞などが自殺原因で母が井戸に投身自殺。水死体に衝撃。
 1896年(14歳)私立周陽学舎(現防府高)入学。短歌を「少年界」などに投稿
 1901年(19歳)東京専門学校予科(現早稲田大学)入学するも3年後神経衰弱で退学
 1907年(25歳)酒業開業
 1909年(27歳)結婚
 1910年(28歳)無軌道な飲酒
 1911年(29歳)文芸誌「青年」に参加。山頭火の雅号でツルゲーネフの翻訳。弥生吟社(後の椋鳥句会)句会に大正2年まで参加
 1912年(30歳)一切の文芸から当分遠ざかると宣言
 1913年(31歳)正月から酒、女に耽溺、金策に悩む。井泉水に師事。「層雲」に田螺公の名で短歌が初入選。短歌回覧紙「四十女の恋」に短歌六首掲載。「山頭火」を俳号とする
 1916年(34歳)酒業破産につき熊本に妻子とともに転じ古書店開業。作句活発
 1919年(37歳)上京しセメント試験場アルバイト、三年後、市役所正雇用なるも神経衰弱で退職
 1920年(38歳)離婚
 1923年(41歳)関東大震災被災、熊本の元妻宅へ。翌年酒酔いし市電を停止させる
 1925年(43歳)出家得度、耕畝(こうほ)と改名。近在托鉢
 1926年(44歳)一鉢一笠の行乞放浪。「山頭火」と改名し「層雲」に「分け入っても…」を投稿
 1927年(45歳)〜1932年(50歳) 四国、山陽、山陰、北九州を行乞。この間泥酔で留置されたことも
 1932年(50歳)山口県小郡町に「其中庵」結庵。第一句集「鉢の子」刊
 1937年(55歳)まで九州西北部、広島、神戸、京都、名古屋行乞。53歳 服毒自殺未遂。鎌倉、伊豆、東京、仙台、平泉、福井から九州へ。下関の材木店に就くも長続きせず。泥酔い無銭飲食で留置
 1938年(56歳)其中庵崩壊。近畿、東海、信州、四国に行乞
 1940年(58歳)中国、九州から帰り、句会の後心臓麻痺で他界 
  年譜は句集「山頭火」(春陽堂)より引用しました

 幼くして母の死に遭遇したことが、山頭火の深い傷になって残っていたはずです。大学入学、退学。繰り返し就職、退職、家庭生活も長続きせず挫折の連続でした。43歳から58歳までの15年間のほとんどを行乞の旅に出て、好き過ぎる酒で何度もしくじっています。それまでになかった、文字数にこだわらない自由律俳句は、自分のうまくいかなかった生活、若くして触れたロシア文学の風を感じての、因習にとらわれたくない心の叫びとして生まれてきたのかもしれません。

 諸国行脚、行乞の旅路の間のほっとできたであろう時間に、口にすることができたコーヒーはどの年代で触れることができたのでしょうか。つぎは、本題の山頭火とコーヒー、コーヒーをうたった句がどのような時に作られたかに話を進めます。

(続く)

 
  • 2015.11.01 Sunday
  • 08:30

談話室

山頭火とコーヒー (1)

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山頭火とコーヒー (1)

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 修行僧のようないで立ちで諸国を行脚し、数え切れないほどの俳句を残した山頭火が、コーヒーを飲んでいたことを知って、意外な気がしました。それもブラジルコーヒーを飲んだと具体的な銘柄も残しているからこれも意外な気がしました。山頭火はそもそもどのような人物で、なぜ諸国行脚をしたのでしょう。

 山頭火は、種田山頭火(1882・明治15年 - 1940・昭和15年)、本名は種田正一(せいいち)。山口県佐波村(現 防府市)に生を受けました。同時期の文人に、若山牧水(1885年生)、高村光太郎(1883年)、斎藤茂吉(1882年)、萩原朔太郎(1886年)、北原白秋(1885年)など多数います。

 ここに出てきた文士のほとんどコーヒーを飲んでいたことが知られていますし、時代的にもカフェ文化創生期にあたりますから、山頭火が時代的にコーヒーを飲んでいたことは不思議ではありません。しかし、昭和の芭蕉と称されるように、山頭火が諸国行脚をしていたことと結びつきにくい気がします。

 まずは、山頭火はどのような俳句観をもっていたのでしょうか。年代別に記してみましょう。
「… 俳句の理想は俳句の滅亡である。物の目的は物そのものの絶滅にあるということを、この場合において、殊に切実に感ずる」(29歳)

「一転しつつある私は懐疑的に生きて居ります。私は俳句其物に就いて諸君の御高見を承りたいと切望しています。句の功拙とかいうこと以外にまた句材とか句法とかいうものについてご経験を示して戴きたいと思います。そして時々 ’何故我々は句作するか’ という疑問を提出して考えたり論じたりするのは一面非常に無知な、そして一面非常に意味のあることだと信じて居ります」(31歳)ー作句に悩んでいた時期

「私は最早印象だけではー単に印象を印象として表白することだけでは満足するができないようになりました。印象に即して印象の奥を探り、そこに秘められた或る物を暗示しなければならないと信じています。そしてそこから印象詩として俳句が生まれると信じています」(33歳)

「俳句というものはーそれがほんとうの俳句であるかぎりー魂の詩だ、こころのあれはれを外にして俳句の本質はない、月が照り花が咲く、虫が鳴き水が流れる、そして見るところ花にあらざるはなく、思うところ月にあらざるはなし、この境涯が俳句の母体だ。」(50歳)

「俳句ほど作者を離れない文芸はあるまい。一句一句に作者の顔が刻み込まれてある、その顔が解らなければ、その句はほんとう解らないのである」
(55歳)

「私の境涯は、山頭火即俳句だ。俳句即山頭火とはうぬぼれていないが(それほど省察を忘れてはいない)」(55歳)

(続く)

 
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  • 2015.10.25 Sunday
  • 18:51