談話室

茂吉父子コーヒーの譜系(2)

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茂吉父子コーヒーの譜系(2)
 
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 茂吉の長男である斎藤茂太(1916-2006)は愛称「もたさん」として親しまれていました。その「もたさん」が、父親とコーヒーについて「私のコーヒー讃歌 父の思い出から始まるコーヒーとの長いつきあい」(珈琲交響曲 2)で次のように述べています。

 『私が小学4年の時帰国するまで、私は家庭の中で父を身近に感じたことはない。その後、昭和28年に他界するまで、私のききなれた父の言葉のひとつは、「勉強するからコーヒーいれてくれや」であった。
 父はあらゆる食物を「おしいただく」ようにして「惜しみ惜しみ」食べる方だったから、コーヒーも例外でなく、西洋式の食事の後のコーヒーは別として、「必要なとき」だけにコーヒーを「有難く」のんだ。その「必要なとき」は作歌や原稿を書く「勉強をするとき」であった。父の本職は精神科の医者だから当然コーヒーのカフェインの薬理作用を考えてのことであったであろう。
私とコーヒーとのつきあいは、このような父の言葉から始まった。』

 実際にコーヒーを飲んだ「初めての経験は」強烈だったそうですが、その後、海外の各地で飲んだコーヒーを紹介していて興味を惹かれます。

 『初めてアメリカで飲んだ,薄くて量の多い「アメリカン」で何杯でもお代わりする習慣が印象強かった。
ウイーンのホテル・ザッハのテラスで飲んだ、ザッハトルテを食べながらのんだウインナコーヒーの味は忘れ難い。
ブラジルでは、扇風機の回る薄暗い飛行機の中でのんだ、ドロリとしたドミタスの味にブラジルを実感。
サンパウロの精神病院の病棟の一角で、歩きながらひょいっと立ち寄って一杯という風景に、実感を濃くした。
アラブ首長国連邦、アブダビ郊外の博物館の館長室で出されたアラビアコーヒーが金属カップで出され、口中ザラザラに「アラブ」に通じる思いを。

 中国では、ほとんど中国料理だが、たまの朝食にでる西洋式でのパンとコーヒーの構成。2回目の中国でのコーヒーは記憶にかかわる感じが。それは、戦中、戦後にのんだ「豆ヒー」の味だった。上海から揚子江経由で武漢からの列車でずっと興奮状態だった。
軍医として三六年前に赴いた株州への行軍で、食料も儘ならぬ情勢の中、灯油のほのかな光のなかで、なんとコーヒーが出された。連隊の高級軍医が、「コーヒーのわかる人が来るまでとっておいたのだ」というのだ。そのときのコーヒーの味は終生忘れられない。再び訪れた食堂車のメニューにコーヒーはなかった。』

 もたさんにとって、父茂吉の思い出は、「勉強するからコーヒーいれてくれや」に尽きるそうです。


 さて、コーヒーの愛飲家諸氏の初めてのコーヒーはどのようなものだったでしょうか。甘くそこはかとないものだったでしょうか。忘れ得ぬひととの一杯だったでしょうか。たった一杯のコーヒーが、あの日あの時の思い出につなげられているなら貴重なことですね。

(了)

 
  • 2015.10.18 Sunday
  • 10:50

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茂吉父子コーヒーの譜系(1)

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 斎藤茂吉は、「黒々としたるモッカを飲みにけり明日よりは寒き海をわたらむ」と詠んで、1921年(大正10年)に渡欧。当時、対日感情の芳しくないドイツに転じた茂吉は、日本人への蔑称である「ヤップス(Japs)」を投げかけられていました。仮住まいから、定住する住居を探すため、「日本人」という文字を大書きし、「日本人、部屋を求む。家賃を示して書面をサイトウ博士に寄せられたし」などと書かれた広告文を新聞に掲載していました。関東大震災発生の1923年9月1日のことです。

 そうした中で書かれた紀行文「ドナウ源流行」の主題は排外主義の克服とされます。シュヴアイガー・レルヒェンフェルト(Schweiger Lerchenfeld)の『ドナウ河(die Donau)』にある「ドナウ河は、さまざまな民族、文化の発達段階がさまざまな国々を貫いで流れ、それらを結びつけてきた、と書かれている」に触発され、ドナウ河を遡行しました。

 渡欧中の茂吉が記したコーヒーの記述は「日本媼」に書かれています。
『媼(おうな)の名は、Marie・Hillenbrandといふ。媼がまだ若くて体に弾力のあつた頃から、その母親と共に多勢の日本留学生の世話をした。当時の日本留学生は概ね三年ぐらゐ居たのであり、一つの都市に居ついて其処で勉強するのを常としたから、都市の人々と留学生との間に、おのづと心の交渉が成立ち、それが今時と較べて余程親密なものであつたと見える ………
私は媼のところに世話になるやうになつてから、朝食を毎朝媼のところでした。黒麺麭を厚く切りそれに牛酪(バター)とジヤムとを塗つて、半々ぐらゐの珈琲を一碗飲ませた。』とありますが、「半々ぐらゐの珈琲」とは何か。碗の半分なのでしょうか。

 茂吉が帰国3年後に生まれた、次男である北杜夫(1927-2011)は「どくとるマンボウ」で知られる小説家、エッセイスト、精神科医ですが、「どくとるマンボウ航海記」に輸入初期のインスタントコーヒーである「ネスカフェ」を登場させ、1974年頃「ネスカフェゴールドブレンド」を愛飲し、テレビCMでうまそうに飲んでいました。

(続く)

 
  • 2015.10.11 Sunday
  • 08:46

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カフェ・ミネルワ(4)

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 また別の日に行きつけの書店の老翁に、『それはやっぱり元のところにあリますよ。いまは踊場か何かになってをりますよ』と教えられました。美術学校近くを訪ねたところ、 「Cafe' und Wein Restaurant Serenissimus. Fritz Randows Kuenstlerspiele 」という店がありましたが、夜の商売の店らしく店は閉じていました。

 ついに、「うたかたの記」の頃のカフェ・ミネルヴァは、38年後に茂吉が訪れたときには Serenissimus に変わっていたということが判明しました。茂吉が、カフェ・ミネルヴァ探しを何回も丹念に続けたことには頭が下がりますが、「うたかたの記」の頃の、口角泡を飛ばし、芸術論、哲学、人生について、コーヒーやビールとともに熱心に意見を交わしていた熱気が、カフェー・ミネルヴァにありましたが、その後は「うたかた」のように、変質していたようです。

 日本でも、「歌声喫茶」全盛の時代には、若者がカフェ・ミネルヴァにあったと同様に、文学論、恋愛論、人生論などを語り合い、一杯のコーヒーで何時間も過ごすことができた空間でしたが、今はどうでしょうか。新聞に掲載されていた読者の声の中に、「喫茶店で英語のレッスンをすることは迷惑か」などというものがありました。ビジネスマンの時間待ち、商談にも使われています。朝食を喫茶店で済ませることが常で、コーヒーを注文すると、トーストなど腹一杯になるおまけ付きという地域がありますが、今や、喫茶店は多目的のようです。いままであった、純喫茶は少数派のようです。

 コーヒーを飲むのは、急いで単にのどを潤すのでなく、自分の中の時間をゆっくり進めることにつなげられるといいのかもしれません。「誰にも邪魔されずに、静かに音楽を聴いて、ゆったり時間を過ごす」ことができるカフェに行ってみたいものです。

(了)

 
  • 2015.10.04 Sunday
  • 11:32

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カフェ・ミネルワ(3)

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 斎藤茂吉はアララギ派に属す歌人として知られていますが、精神科医として1921年(大正10年)香港、シンガポール、パリ、ベルリンなどを経てウィーン大学で研究生活に入りました。後にミュンヘン大学に転じていますが、ヒトラーのミュンヘン一揆に遭遇しています。1924年(大正13年)10月に医学博士の学位を得て帰国しました。帰国してから3年後、茂吉が投薬していた薬で芥川龍之介が睡眠薬自殺をはかっています。

 カフェ・ミネルヴァを訪れたのは、帰国した1924年のはじめです。ミュンヘンの案内図を調べても、その名を見つけることはできませんでした。別の日にも訪れています。美術学校の近くに珈琲店らしいものはなく、食堂らしいものがあるものの、戸は閉じ、窓についた雪の下に氷柱が下がっているのを見て、落胆して引き返しました。

 その後、機会あるたびにカフェ・ミネルヴァのことを訊ねています。ある日、大学近くの書店に行ったついでに、近くの酒店兼珈琲店に立ち寄ってみました。すると、なんということでしょう、カフェ・ミネルヴァを連想させる店がありました。
『煙草のけむりもうもうと立ちこめ、人ごゑが威勢よく起こる間に、静かに西洋将棋を楽しんでいる者もいる。麦酒の大杯を傾けている一群の側に、日本の碁を弄している数人などもいる …… 』
大正末期に日本の囲碁をドイツ人が興じていたとは、興味を惹かれます。

 再び、カフェ・ミネルヴァ探しに出かけました。大学近くの酒店兼珈琲店に立ち寄ってみたところ、客のひとりが、『カフェ・ミネルワといふのは、Cafe' Universitaet (=カフェ・大学) の筋向かいの珈琲店の前身である』ことを教えてくれ、ついに行き着いたかに見えましたが、その珈琲店を訪れると、残念ながらカフェ・ミネルヴァの後身でなく、その名を Cafe' Stefane といい、当てはずれであることが分かりました。

(続く)

 
  • 2015.09.27 Sunday
  • 15:10

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カフェ・ミネルワ(2)

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カフェ・ミネルワ(2)

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 明治23年初出の、この小説が書かれた頃の、ドイツのコーヒー代はいかほどだったのか気になるところですが、『われは珈琲代の白銅貨を、帳場の石版の上に擲げ、…… 』とあるだけで不明です。明治23年、日本で初めてのコーヒー店「可否茶館」が開かれたと同時期で、「可否茶館」では、一杯のコーヒーは1銭5厘、牛乳入りは2銭でした(「可否茶館」開店チラシによる)。当時の盛りそば一杯が8厘だったといいますから、初めての頃のコーヒーは、飲み物そのものも、値段もハイカラだったようです。

 カフェの名ミネルヴァ(Minerva)はローマ神話の女神の名です。ギリシャ神話ではアテナ(Athena)と同一視され、大神ゼウスの頭から生まれたとされています。
「ミネルヴァのフクロウ」という名がいろいろ引き合いに出されますが、ミネルヴァの連れているフクロウは、知恵の象徴とされ、ヘーゲルが『法の哲学』に記している、「ミネルヴァのふくろうは黄昏に飛翔する(Die Eule der Minerva beginnt erst mit der einbrechenden Daemmerung ihren Flug)」 は、「フクロウが夕暮れ時に飛び立つとは、事物が最終状態にあるとき、正確に認識される」と解釈するといいようです。昨今の政治劇にも似た話がありそうです。

 カフェ・ミネルヴァでは、コーヒーのほかアルコールも出され、若者で賑わっていました。
はじめて巨勢がカフェ・ミネルヴァに行ったとき、そこで出会ったマリーの美術学生たちに対する激しい言葉がありました。
『「継子よ、継子よ、汝ら誰か美術の継子ならざる。フィレンチェ派学ぶはミケランジェロ、ヰンチイ(=ダビンチ)が幽霊(=模倣)、和蘭(オランダ)派学ぶはルウベンス、ファン・ヂイク( =ダイク Anthony van Dyck)が幽霊、我国のアルブレヒト・ドュウレル(=デューラーAlbrecht Duerer)学びたりとも、アルブレヒト・ドュウレルが幽霊ならぬは稀ならむ。会堂に掛けたる「スツヂイ(=Studie習作)」二つ三つ、値段好く売れたる暁には、われらは七星われらは十傑、われらは十二使徒と擅(ほしいまま)に見たてしてのわれぼめ。かかるえり屑にミネルワの唇いかで触れむや。わが冷たき接吻にて、満足せよ。」とぞ叫びける。』

 カフェ・ミネルヴァはただ飲食するのでなく、若者たちが芸術論を戦わせるような場であったようです。そのカフェ・ミネルヴァを、斎藤茂吉が大正十三年に、ふと思いついて訪れています。

(続く)
 
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  • 2015.09.20 Sunday
  • 12:55